コロナ以後の社会はいま、多数決主義と効率思考に反対できるか。
重要なのは、意見の同一という数ではなく意見の質であり、そして適切な配置なのである。適切ではない配置とは、イチローを球場の受付に置いて、受付のバイトを野球のプレイヤーに置くようなものである。
そして、効率思考が可能性を削いでいく。効率思考が生む新しい可能性は無いのだ。
一人で歩けない者が何人集まって手を繋いでも、それは歩けない集団なのだから。そればかりか他人が歩くのを重くしていく一方なのである。社会がそれに気づけるかどうか、ということでしかない。